過去ログ(2006.12.13〜2007.11.02)百件
2007年07月17−20日 南京事件FAQを斬る 3 6〜10
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6. スマイス関係
●6-a. スマイス報告とは何か
> 市部調査の対象範囲は、南京城内および城壁周辺の若干の地域である(郷区などは含んでいな
いため「南京市」より狭い)。
> こちらでは入居中の家屋50戸につき1戸の全家族に対して調査が行なわれた。具体的には945世
帯が対象となっている。
> その調査結果を50倍して、推定される市部全体の被害を算出している。
>
> 農業調査の対象範囲は、南京特別市に属する六県のうち四県半である(本来は六県をカバーする
予定だったが、中国人当局からスパイ扱いされて阻止された)。
> ただし農業調査の名の通り都市部は除かれている。
> こちらでは主要道路沿いの農村のうち3つに1つを選び、さらにその村の農家10家族につき1家族を
選んで調査された。
> 最終的には4.5県全体で905世帯の農家が調査されており、抽出率は905/186,000、つまり約1/206
である。
> 調査した県ごとに農家1戸あたりの平均被害を求め、その数字に各県の農家の総数を乗じて各県
の総被害を導いている。
R:
なんだ。
マスゴミがやってる「意識調査」と同じか。
1/50だの1/206だの。
ゼロとは言わないが、信憑性が高いとは思えない。
くどいようだが、侵略軍に襲われている場所で、そこの住民に侵略軍に関するアンケートを取って、ま
ともなデータが得られると考える方がどうかしている。
アンケートの対象は、夫を,息子を,父親を,恋人を,友人を殺した侵略軍なのである。
一片の感情も混じらない冷静な回答が返ってくるワケがないではないか。
ところで、スマイス報告の市部調査における死亡者数と拉致者数,農業調査における死亡者数を全
て合計しても33470人で20万人超に遠く届かないんだが。
●6-b. スマイス報告の「死因」にすり替えはない
> 「中国人が別の原因で死んでも日本兵の暴行にされているのではないか」、「実際は日本兵の暴行
はずっと少なかったのではないか」といった疑惑は無根拠な想像に過ぎない。
>
> そもそもスマイスの立場なら集計時に数字を自在に捏造することができたはずである。
> 死因をいじるようなミクロレベルの小細工をわざわざする理由はまったくない。
R:
ま、そーだろうね。
1/50だの1/206だのって低い抽出率と聞き取り調査の対象者の方が問題だ。
●6-c. スマイス報告の「加害者」は大半が日本兵
> スマイス報告のまえがきには以下のようにある。
>
>> 事実上、城内の焼払いのすべてと近郊農村の焼払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこ
なわれたものである(南京においては入城から一週間すぎて十二月十九日から二月初めまで)。
>> 調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民にたいする暴行は、実際の
ところすべて日本軍の手によっておこなわれた。
>> (『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』p212)
>
> まえがきを書いたのはベイツであるが
R:
ベイツかよ。 東京裁判で大虐殺を証言した1946年に、中国政府から勲章を受け取ったベイツか。
それはさておき。
(1)くどいが、アンケートの質問は憎き侵略軍に関する内容である。
質問を受けている民衆が、夫を,息子を,父親を,恋人を,友人を殺されている可能性が極めて高
い。
(2)中国軍が行った蛮行の写真がトリミングされて、南京事件の証拠として捏造されたことから考えて
も、識字率すら低い農村部の民衆が中国軍と日本軍の区別をちゃんとしたとは考え難い。
スマイス報告が意図的に「中国軍敗残兵の暴行殺害」を「日本軍兵士の暴行殺害」にスリカエなくて
も、農村部の民衆が誤認した可能性は極めて高い。
従軍慰安婦問題の強制連行でも、日本語の分らない被害者が「お目当ての娘だ。連れて行け」という
日本軍兵士の声を聞いたというトンデモな証言があるくらいだ。
無学であれば、軍服を着た男が中国語を話していても「日本軍兵士だ」と勘違いしてオカシク無い。
●6-d. スマイス報告に被害の水増しはない
> 調査員が遭遇した農村(またはサンプルとして選んだ農家)が特別に大きな被害を受けていたわけ
ではないのである。
> 調査員が聞き込みをした農家は905世帯であるが、それが4.5県全体の18万6000世帯の中で偏っ
て被害が大きかったという論証はなされていない(それどころか北村氏は、調査された地域は日本軍
の侵攻経路とあまり重ならないとさえ書いている)。
> 確かに無作為抽出ではなく任意抽出ではあったが、客観的なデータを得るための努力は可能な限
りされたのだから、母集団全体の被害状況も似たようなものであったと考えるのが妥当である。
R:
だから。
質問を受けている民衆が、夫を,息子を,父親を,恋人を,友人を殺されている可能性が極め
て高い。
んだってば。
アンケート結果の被害集計が、南京城内よりも郷区で数字が大きいのも
(1)実際に郷区で日本軍兵士が民間人を多数殺害した。
(2)郷区で中国軍兵士が生き残る為に民間人を殺害して略奪を働いたが、目撃者に軍服の識別が出
来ず、リアルタイムで侵略されていたために、「中国人を殺すヤツ=日本軍兵士」という先入観が働い
た。
(3)南京城内は(一部のDQN兵士を除いて)規律正しい日本軍兵士を見たので、嘘の少ないアンケー
トになったが、郷区では「日本軍兵士=悪魔の侵略軍」という認識であっため、貶めるための嘘が多く
混じった。
と3種類の理由が考えられる。
したがって、
「南京城内よりも郷区で数字が大きい」=「南京大虐殺は郷区で行われた」
は思考が短絡すぎる。
中国軍敗残兵も蛮行を繰り広げているというのに、識字率すら低い農村部で聞き取り調査をやって
いる時点で、現代のマスゴミがやってる意識調査以下だと言わざるを得ない。
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7. 埋葬問題
●7-a. 大量の死体は実際にあった
> 大量の死体を目撃しなかったと証言する人々は確かに存在する。
> しかしそれを全面的に受け入れると、戦闘による死体さえなかったことになってしまう。
> 南京戦は激戦であり、中国側の戦死者だけでも万単位に上る。
> 大量の死体は実際に存在したのであり、虐殺がなかったと言いたいあまりに、あったはずのものま
で否定するようでは説得力は皆無である。
R:
話がスリ替わっていないか?
ここで論じるべき死体とは、「南京陥落後、日本軍に殺された民間人の死体」だと思うが。
●7-b. 紅卍字会の埋葬活動期間に偽りはない
> 紅卍字会の4月4日付の南京自治委員会に向けた書簡では、現在までに3万数千体を埋葬しなお
続行中(『南京事件資料集 2』p273)とある。
> これは3月末までの累計が3万8780体になる埋葬記録と一致する。
> また8月下旬に督弁南京市政公署社会処(南京市自治委員会の後身)に提出した書類では4万と
少しの遺体を埋葬となっており、やはり埋葬記録(7月末までに4万2997体)と一致する。
> つまり3月15日以降も埋葬活動が続けられていたことは事実であり、その数字の正確さも当時の資
料で裏づけられているのである。
R:
南京城陥落は昭和12(1937)年12月13日であり、史実派いわく6週間に渡って虐殺が繰り広げられた
そうだ。
12月13日の6週間後なら1月末である。
1月末までに殺害された死体を埋葬(ちなみに、中国で死人を焼くのは故人に対する侮辱となるた
め、この埋葬は文字通り「死体を埋める」の意味)せず放置していたら間違いなく腐る。
4月4日付けの書簡に書かれた「3万数千体」が意味するのは、
「南京大虐殺の被害者」&「南京城陥落後の4ヶ月半に渡って生じた通常戦闘の戦死者」を4月4日ま
でに「3万数千体」埋葬したというだけのことである。
偽りはないかも知れないが、3万数千体やら4万体超の埋葬数が南京大虐殺の被害者だということで
も無い。
●7-c. 紅卍字会の埋葬隊の服装に不審な点はない
> 南京には1月6日にはアメリカ大使館員が復帰しており、カメラを持っていた可能性は否定されな
い。
> また、紅卍字会の埋葬班班長だった高瑞玉の証言によれば、上着かベストに卍マークを描くのが
正式で、間に合わない者が腕章に卍マークを付けていたとされる(『南京大虐殺否定論13のウソ』
p130)。
> つまり映像がニセモノという証拠にはならない。
> 単に1月時点で埋葬作業をしていたことの補強材料になるだけである。
R:
紅卍字会が1月時点で埋葬作業をしていたこと自体に異論はない。
だが、だからといって南京大虐殺が有った証拠(根拠)にもならない。
●7-d. 紅卍字会の12月の埋葬は捏造ではない
工事中
7-e. 崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実
> 1938年2月6日付けで南京市自治委員会に宛てた手紙で「査するに弊堂が埋葬隊長を成立させて
から今まで一ヶ月近くたち」とあるので1月から作業をはじめていることがわかる。
> この手紙では同時に崇善堂所有の自動車部品の供給を願い出ている。
>
> 否定派はこれをつかまえて、自動車は1台しかなく、それも故障しているから多数の埋葬はできな
い、などとするが、当時において自動車を所有していたということは大きな財源をもっていたことを示し
ている。
R:
大きな財源を持っていたなら、自治委員会に自動車部品の供給を願い出なくても直せそうに思うんだ
が。
それはともかく。
これと20万人超の南京大虐殺がどう繋がるのかな?
●7-f. 崇善堂の埋葬数を全否定することはできない
> 崇善堂はその埋葬数が紅卍字会の3倍近いこと、特に4月の埋葬数が急増していること、日本側資
料、安全区国際委員会資料に登場しないこと、資金が不明なことなどが疑問視されている。
> 埋葬急増の実態については、4月以降は城外の激戦地を含み、大量の戦死体を含むことは間違い
がない。
> これらの埋葬については付近住民の協力の下に、収棺や筵も省略し、現地の菜園などにおいて粗
略な埋葬を行ったものと考えられる。
> また、南京城の外郭陣地にはおびただしい数の塹壕や、防空壕、戦車壕が堀めぐらされていた。
> それらを利用することによって集団埋葬がはかどったと考えられている。
R:
南京城陥落は昭和12(1937)年12月13日であり、史実派いわく6週間に渡って虐殺が繰り広げられた
そうだ。
12月13日の6週間後なら1月末である。
南京市は北緯32度、東経118度に在るから、1月末までに殺された遺体を4月まで放置していたら間
違いなく腐ってエライことになる。
したがって、崇善堂が埋葬した数には南京大虐殺による死体以外に、南京城陥落後に周辺で行わ
れた戦闘によって生じた戦死者が含まれている。
埋葬総数の内、何割が「南京大虐殺による死体」で、残りの何割が「南京城陥落後に周辺で行われ
た戦闘によって生じた戦死者」なのかが分らない以上、崇善堂の埋葬数そのものは南京大虐殺の証
拠(根拠)にならない。
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8. 事件当時の中国が主張していない?
●8-a. 蒋介石も事件を知っていた
> 1938年7月7日に抗戦一周年を期して出された声明「日本国民に告げる書(日本国民への声明)」に
は以下のようにある。
>> 「また日本軍が占領したどの地区においても掠奪、暴行火附けを行つた余勢で、わが方の遠くに
避難出来なかつた無辜の人民および負傷兵士に対しても大規模な屠殺が行はれた。
>> また数千人を広場に縛してこれに機銃掃射を加へ、あるひは数十人を一室に集めて油を注ぎ火
炙りに処し、甚しきに至つては殺人の多少を以て競争し、互ひに冗談の種としてゐる。」
> これを「虐殺」が書かれていないと読むのは無理である。
R:
これ↓やったら、南京城内に駐留していた外国人記者にバレバレじゃんか。
>> また数千人を広場に縛してこれに機銃掃射を加へ
●8-b. 毛沢東も事件を知っていた
> 毛沢東自身も「南京事件」の安全区委員会資料を掲載した、『中国占領区の日本帝国主義』(延安
時事問題研究会編、1939年)に序文を書いている。
> 当然、この時点ではその内容について承知していたことになる。
>> 南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な
獣行記録をつくることとなった。
>> これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍
さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。」
R:
『中国占領区の日本帝国主義』などというプロパガンダやる気マンマンな記事に一切の誇張がないと
思う?
てゆーか。
なんかギレン・ザビのアジ演説みたいな口調だな(笑)。
●8-c. 中国は国際連盟に働きかけていた
> 南京の虐殺はそれだけが孤立して行われたのではない。
> それは日本の中国侵略の一こまに過ぎず、南京事件の発生以前の段階で日本の中国侵略戦争
は国際的に圧倒的な非難を浴びていたのである。
>
>> 「さらに、高い軍紀を誇りにしてきた日本兵が占領地で繰り広げる残虐で野蛮な行為は、戦火に
打ちひしがれた民衆の艱難辛苦をさらにいっそう増大させ、礼節と人道に衝撃を与えています。
>> あまりにも多くの事件が中立国の目撃者によって報告され、外国の新聞で報道されているので、
ここでいちいち証拠をあげるには及ばないでしょう。
>> ただ、その一端を物語るものとして、日本軍の南京占領に続いて起こった恐怖の光景にかんする
『ニューヨーク・タイムズ』紙特派員の記事を紹介すれば十分でしょう。
>> このリポートは一二月二〇日付の『ロンドン・タイムズ』紙に掲載されたものであります。
>> 特派員は簡潔な言葉で綴っています。
>> 「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の
大量処刑、連行される壮健な男たち。」
>> (国際連盟での中華民国代表 顧維鈞の演説)
R:
ニューヨークタイムズの記事は、米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞が元。
フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、ベイツ教
授は中華民国政府の顧問。
●8-d. 何応欽の軍事報告は「虐殺」の報告を目的としていない
> 何応欽の年次報告書に虐殺被害が見られないと言っても、報告書には目的がある。
> 中国軍の行動と、損失をまとめた報告に、戦闘外での被害が記載されていないということは別に不
思議ではない。
>
>戦後の著書では何応欽は南京虐殺について触れている。
>
>> 何応欽『中日関係と世界の前途』
>>
>> 「南京陥落後の大屠殺で、殺害された市民が十万人以上にも達した。
>> 日本軍は麻縄で数百名の武装のない兵士や市民を一しょにしばつて機関銃で一斉掃射したり、
あるいはガソリンをかけて彼らを焼き殺した。
>>日本の将校が兵士を引率して、いたるところで放火、掠奪、強姦をほしいままにし、強姦された婦
女子の数は教え切れず、しかも強姦された婦女子の多くは殺された。」
R:
『中日関係と世界の前途』は何応欽が今まで行ってきた講演や、対談、文章などを集めたものです。
ググって見つけた掲示板(http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/6/jkgqrf/index.html)から転
用させて戴く。
1972年の講演『早く日本を救え! 日、中(共)の「建交」と日本の前途』から引用します。
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中華民國は八年間の抗戰中に、日本軍閥によって歴史に類例を見ないほどの殺戮(さつりく)と迫害
を受けた。
いまその一、二の例を擧げてみるが、この一事をもつてしても日本軍閥の暴虐がいかに言語に絶す
るかを知ることができる。
(一)南京陷落後の大屠殺で、殺害された市民が十萬人以上にも達した。
日本軍は麻縄で數百名の武装のない兵士や市民を一しよにしばつて機關銃で一齋掃射したり、ある
いはガソリンをかけて彼らを焼き殺した。
日本の將校が兵士を引率して、いたるところで放火、掠奪(りやくだつ)、強姦をほしいまゝにし、強姦
された婦女子の數は數え切れず、しかも強姦された婦女子の多くは殺された。
甚だしいのになると軍刀で乳房を切り取った後、裸のまゝで地上に轉がして、その痛み苦しみ、もが
いている哀れな姿を見て日本軍の人達は喜んでいた。
また、ある日ある婦人は三十七回も強姦された。この世界を驚かせた大暴行は、今日これを思うだ
けで、實に胸がはり裂け、血がほとばしり出るほどの悲憤の念を禁じ得ないものがある。
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1972年の講演と言うことは、戦後27年も経ってからの発言です。
しかも、この内容は何応欽将軍自身の目撃談ではなく、他人の日記からの転用でした。
同掲示板(http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/6/jkgqrf/index.html)より
フィッチの日記らしいです。
「十二月十七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。
ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて千人の婦人が強姦されました。
ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。
別の婦人は五ヶ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。
野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。
抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。」(フィッチの日記)
そして先にも触れた通り、フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴の
ある人物。
この本自体が日本語で書かれていることもあり、どうみても、日本国内のサヨク勢力に向けた援護射
撃ですね。 ありがとうございました。
●8-e. 中国の代わりに外国人が抗議している
> 南京城内で日本軍が民間人に対する略奪暴行、拉致、殺人を繰り返したとされる時期に南京で市
民の保護に当たっていたのは残留外国人からなる「安全区国際委員会」であり、同委員会は日本大使
館に対して膨大な数の抗議を行なっている。
R:
それはともかく、ちょっと引っ掛かるんだが。
「安全区国際委員会」が日本大使館に宛てた抗議文の第7号文書(1937年12月18日付)に
>> われわれが保護している二〇万の市民の苦難と窮迫は、貴国軍隊が何らかの処置をとって、安
全区を徘徊する日本兵の間の無秩序状態をやめさせるよう要請することを、焦眉の急としております。
>> 当方にて記録が間にあわないほど頻々と報告されてくる暴行事件の内容にここで詳しく立入る時
間も紙面もありません。[略]
とある。
安全区および南京城内で20万人超が虐殺された説には無理があったんじゃなかったか?
これらはあくまで侵略軍兵士にありがちな蛮行であって、南京大虐殺の証拠にはならないと思うんだ
が。
おまけに
>> 当方にて記録が間にあわないほど頻々と報告されてくる暴行事件
を以って日本国軍の蛮行が裏付けられたと考えるとは(笑)。
日本軍を嫌う住民からのデマという発想は微塵もないのか。
●8-f. ケ小平以前から中国の教科書には南京事件が載っていた
>> 「1937年11月、日本侵略軍は上海を占領し、続いて南京を包囲した。蒋介石は南京を六ヶ月間を
守ると述べたものの、結局六日間で陥落した。
>> 南京の人民は日寇に非人間的な残虐きわまる暴行を受けた。
>> けだもののような日寇は一ヶ月余に、我々三十万の同胞を殺害し、約二万余の女性に暴行を行
い、市内の建物の三分の一が焼かれ、数えられないほどの金品を略奪した。
>> これは日本侵略者が中国人民に残した大きな血の債務である。」
>> 中華人民共和国 九年一貫制試用課本歴史第3冊、1960年版P111−112
R:
戦後、しかも東京裁判以降に書かれた反日記事に証拠能力はないゾ。
しかも、中国の教科書がソース(出典)って...
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9. 事件当時の米、英が触れていない?
●9-a. 欧米では事件は大々的に報道されていた
> 欧米では南京の暴虐が大々的に報道されていた。
> 特に南京に滞在していた記者がリアルタイムで発信した「ニューヨーク・タイムズ」と「シカゴ・デイリ
ー・ニューズ」の一連の記事は、完全に正確とはいかなくとも、当時の南京の状況を知るうえで非常に
有益な資料となっている。
> それら以外にも「ワシントンポスト」1/12、「マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー」2/11、「デイリ
ー・メール」12/15、「タイム」(アメリカの週刊誌)2/14、「ライフ」1/10などでも南京の暴行事件は取り上
げられている。
> 中国の英語紙やアメリカの中国語紙などでも同様である。
R:
併合によって日本人となった半島人を2割も抱え込んでいた日本軍の軍紀は、決して規律正しいとは
言えなかったかも知れない。
したがって侵略軍兵士による「侵略者の特権」が幾許か行使された可能性は認める。
南京に滞在していた外国人記者が発信したニュースは、そういった蛮行に関するモノであって、20万
人超に及ぶ大虐殺の経過報告ではない。
だが、記事の中には、ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を元にしたモノも混じっており、いまいち正鵠
を射ているとは言い難い点にも注意が必要だ。
そもそも、安全区に居たハズの外国人記者たちが、安全区外で行われた日本軍兵士の犯行を多く
目撃したという話は、どう考えても眉唾モノだろう。
目撃の記録だったのか?あるいは証言(伝聞)の記録だったのか?
その点は加味した上で、ニュース記事を吟味する必要がある。
●9-b. 欧米の大使館も事件を記録していた
> 第三国から虐殺についての公式の抗議がなかったからといって、虐殺がなかった、それを知らなか
った、と安直に決めつけてはいけない。
> アメリカ、ドイツの外交文書には日本軍の残虐行為を記録したものが多数残されているのである。
R:
これも日本国籍半島人およびDQNの蛮行に関するモノであって、20万人超に及ぶ大虐殺の経過報
告ではない。
「日本軍兵士が悪辣漢でなければ、20万人超の大虐殺なんて起こり得ない」 → 「日本軍兵士は悪辣
漢という記録を提示」 → 「やっぱり20万人超の大虐殺があった」と考えるお花畑脳味噌はどうにかなら
ないものか。
幾ら極悪DQNであっても、それ自体が犯行の証拠になんぞならん。
話は、常識レベルの数でしかない略奪,強姦,致死傷の暴行なのか? それとも20万人超の大虐殺
なのか?
はっきりしてくれ。
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10. 事件当時の日本マスコミが触れていない?
●10-a. 日本における報道は当時から規制されていた
> 昭和12年には新聞の報道内容を規制する通達が多数出されており、日本の大新聞は軍に批判的
な記事、残虐行為の記事は書けなかった。
> 軍に不利な報道そのものが禁止されていたのである。
>
> 小説家やミニコミ紙の記事には、残虐行為について記載したものがあり、取り締まりの対象となっ
たケースがある。
> たとえば石川達三は昭和13年に南京攻略戦後に南京に入城し、そこでの見聞を小説「生きてゐる
兵隊」として雑誌「中央公論」に発表し、「新聞紙法違反」に問われて、発禁処分、禁固4ヶ月の判決を
受けた。
>
> また、旧軍幹部や外務省幹部のメモ、日記などに日本軍の残虐行為の事実、あるいはその報告が
あったことを伝えているものが数々存在する。
> 次項で述べるように、戦後になって、自らの見聞した「虐殺」について証言したジャーナリストも何人
もいる。
>
> 大宅壮一は週刊誌の対談で
>>「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。
>> 三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。
>> まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね。」
> (「サンデー毎日」臨時増刊 1966年10月20日号 P78)と発言している。
R:
石川達三の著書『人間の壁』は1957年 月から1959年4月にかけて、『朝日新聞』に連載された新
聞小説。
内容は、1956年の教育二法の国会通過から1958年の勤務評定闘争に至る時期の日教組組合
員である教師たちの「民主教育」のための戦いを描いている。
『風にそよぐ葦』は、太平洋戦争終盤の時代を背景にして、ある出版社の戦中から戦後にかけて、時
代の風圧に抗して生きた姿を描いた社会小説。
主人公は新評論社の社長。 特高警察から共産主義のシンパと睨まれ、従業員の記者が何人も留
置場に拘留される。
早い話が石川達三はアカ。
それと、東京裁判以降、機知の情報を基にした発言は、南京大虐殺の証明にならない。
●10-b. 日本人記者や文化人も「虐殺」を証言している
> 個々の日本人記者、文化人たちの見聞の範囲は比較的狭く、全体の状況の把握は十分とはいえ
ない。
> それでも、「捕虜殺害」などについて見聞きした入市者は多く、「大」虐殺という認識があったかどう
かはともかく、多くの者が一定規模の「虐殺」は肯定している。
R:
一説には約2割も居たといわれる併合半島人を含んだ皇軍が、南京陥落後に侵略軍にありがちな蛮
行を働いたことについては、私も否定しない(数を鵜呑みにするつもりはないが)。
また、当時の国際法に照らして身柄を拘束した捕虜を処刑したこと自体は非合法であろうが、当時の
記録に残る「一定規模の虐殺」というモノの大多数は、便衣兵(ゲリラ)や捕虜の処刑であった。
軍服を着ていない便衣兵が処刑される光景は、事情を知らない者の目に、民間人を殺害しているよ
うに見えたことだろう。
〜 11. 写真関係 へ続く
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